20160312 NO.4
◎写真によるまちづくり(東川町)
北海道のほぼ中央に位置する東川町は、近年、人口が増加し続けており、過疎化がすすむ北海道において、小規模自治体としては極めて珍しい存在になっている。それまで減少傾向にあった人口は、1994年には7千人を割り込み過去最低を記録したが、そこから増加に転じ、2015年12月には8,105人を記録している。約20年間で16%も増えたことになる。このような結果をもたらした要因、まちづくりを探ってみなければならない。

東川町では、一村一品運動が盛んな時期に一品を模索した中で、1985年6月に「写真の町」を宣言し、条例化したことから現在のまちづくりが始まっている。まちづくりをプロデュースするコンサルからの提案を、違和感を持ちながらも受け入れたということで、一品をハードではなくソフトにしたその発想が、大きく花を咲かせて今に至っているようである。北海道の最高峰旭岳を含む大雪山国立公園が町域であり、自然豊かな農村風景を含めて、日本一の被写体になれる。当時の町長のそんな思いから、自然、文化、人と人の出会いを大切にする「写真映りの良い町づくり」、「写真映りの良い人づくり」、「写真映りの良い物づくり」がスタートした。

カメラ産業や著名な写真家との関わりがない状況であったが、その中で、写真界で活躍する人に「東川賞」を贈る東川町国際写真フェスティバルを開催したのである。回数を重ねることによって、知名度と権威が高まっていったものの、町民に写真の町が浸透するにはまだまだであり、逆に、否定的な声も上がるようになっていたそうである。

写真の町宣言から10年目の1994年に「全国高等学校写真選手権大会」(写真甲子園)を開催したことが転機となり、写真のまちづくりが一気に進んでいった。3人ひと組のチーム制の大会は、各地方予選を勝ち抜いた高校生が東川町での本戦に参加し、町内で撮影し、その作品のプレゼンテーションで競い合うもので、町民は、撮影に対する協力、選手やボランティアスタッフのホームステイ受け入れ、炊き出しなど様々な形でかかわっていく。被写体になるのは町内の風景であり、自分たちの姿であるから、「写真映りの良い町・人・物づくり」の取り組みは自然に広がっていくことができた。

写真甲子園の参加校は、第1回の163校から徐々に増加し、第22回となる2015年では514校となった。参加する生徒だけではなく、その家族もまた東川町に憧れの思いを抱くようになり、ボランティアスタッフ参加者を含めた交流人口は雪だるま式に膨らみ続けている。写真の町が認知され定着した現在では、写真の町東川賞授賞式・国際写真フェスティバルにも約38,000人もが訪れるという。

写真甲子園は、2009年のふるさとイベント大賞・優秀賞を受賞し、翌2010年には写真によるまちづくりに文化庁長官表彰(芸術文化創造都市部門)が贈られた。これらの実績を踏まえて、東川町は2014年に「写真文化首都」宣言を行った。あえて首都としたのは、都市はどこにでもあるが首都は一つだけとの意が込められている。さらに、写真の町づくりが加速するであろう。

東川町は、旭川市中心部から約15q、旭川空港から約5qの位置にあり、主産業は米作をはじめとする農業と、旭川家具を作る木工業である。大雪山系からの豊かな伏流水のおかげで上水道普及率はゼロ。すべての家庭が天然のミネラル水を使用するという贅沢さ。これに、写真映りの良い町・人・物が加われば、聞いただけで住んでみたくなるのもうなずける。

このほか、ふるさと納税を、一株1,000円からの東川町株主というユニークなものにし、優待策としての特産品送付はもちろんのことで、町内の宿泊施設・ケビンなどの優待利用ができるようにもしている。このことによっても、住んでみたいと思える町内の良さを体験、交流する人々を増加させている。

町内で生まれた子供全員に、旭川家具職人が道産材で製作し、ネーム、生年月日が刻みこまれた椅子をプレゼントする「君の椅子プロジェクト」など、心のこもった温かい子育て支援、それから、独立開業資金を補助する「起業化支援制度」も用意されている。

もう一つ、外国人を対象にした町立の日本語学校を開校させて、交流の輪の国際化まで図っているのであるから、"びっくりぽん!"の連続であった。

何かに特化したまちづくり、今治市でも取り組んでみたいものである。

photo-9  「写真文化首都」東川町役場
      副町長、議長、議会事務局長とともに


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